江戸時代中期、香川県さぬき市から出た本草学者・平賀源内(1728―79年)ほど、「奇才」の言葉が似合う人はいないだろう。同市志度の生家から、平賀家の墓所まで約1キロの「源内通り」を歩き、偉人に思いをはせた。

 通りの西の端、平賀源内旧邸にある銅像に会釈してからスタート。源内は、この近くにあった高松藩蔵の警備を務める下級武士の家に生まれ、子どものころから工夫が好きだったという。11歳のころ、酒を供えると人物の顔が赤くなる「御神酒(おみき)天神」というからくりの掛け軸をつくり、それが評判になって「天狗(てんぐ)小僧」と呼ばれたそうだ。

 レトロな街並みと、かつて富の象徴だったという「うだつ」の上がった家を見て歩いていると、記念館はすぐだ。中に入るとすぐ日本地図があり、縦横に引かれた線は、西は長崎から東は秋田まで、源内が飛び回った軌跡だという。


平賀源内が歩いた江戸の街や志度の通りをイメージした館内

平賀源内が歩いた江戸の街や志度の通りをイメージした館内


 この記念館の展示テーマは「歩く」。幼い日に走った志度の町、夢を抱き歩いた長崎への道、栄光と失意の中で見た江戸の街…。それぞれの時代に分けて史料を展示している。

 展示ケースには先ほどの「御神酒天神」や、長崎で収集したオランダの図鑑の数々、大ヒットした浄瑠璃の脚本。源内の発明品として一番有名なエレキテルの現物もあり、大切に残されていることに感動する。また華々しい活躍だけでなく、本業だった本草(博物)学者としての努力を感じさせる史料も。「本草会(ほんぞうえ)」(現在の万博のような催し物)に出品を呼びかけるチラシには、当時一般的だった学閥に縛られず、広く出品を募る工夫も凝らされている。



 才能に加え、旧来のやり方に縛られない発想力と行動力。田沼意次や杉田玄白らに愛された人柄。高価な輸入品しかなかった陶器や薬品を、国産化しようとした商才もあったと分かる。だが、後半生で力を入れた鉱山開発では思うように利益を上げられず、焦りの中で莫大な借金を抱え、最期は孤独に亡くなったという。複雑な人生の結末に、展示品の前で少し考え込んでしまった。

 さて、記念館を出るとまた、虫籠(むしこ)窓のある家を見たり、ちょっとそれて志度城跡を探したりとぶらぶら歩き。平賀家のお墓に手を合わせ、志度寺の五重塔を拝見して散策を終えた。

 テレビドラマにもなった平賀源内―。この通りを元気に走っていた天才少年を、もし江戸時代の人々がもっと理解できていたら…? 歴史にifはないというが、ふとそう思ってしまう街だった。

(四国新聞・2022/05/28掲載)


平賀源内記念館



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