平安末期の1156年に保元の乱に敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇の第1皇子・重仁親王を祭る檀紙八幡神社(香川県高松市檀紙町)に、親王の肖像画がお目見えした。檀紙地区では、親王が上皇を追って讃岐入りし、現在の檀紙町で23歳の若さで亡くなったとの伝承があり、同神社の長岡千尋宮司(69)は「父親と同じく悲劇に見舞われた親王。鎮魂の祈りをささげるとともに、多くの人に広く伝えていきたい」としている。


檀紙八幡神社にお目見えした重仁親王の肖像画と長岡宮司=高松市檀紙町

檀紙八幡神社にお目見えした重仁親王の肖像画と長岡宮司=高松市檀紙町


 同神社などによると、親王は皇位継承の第1候補とみられていたが、保元の乱後に出家し、足の病で死去したといわれている。檀紙地区では、かつてあった薬王寺がついのすみかとして伝わっており、同寺跡には「重仁親王廟(びょう)」がある。
 同寺は、江戸時代に高松藩初代藩主の松平頼重によって現在の同市番町に移され、境内には「重仁親王墓」が残されている。
 長岡宮司は徳島県脇町(現美馬市)出身。藤原鎌足を祭る談山神社(奈良県桜井市)の宮司を2021年9月に退任する際、地元に近い香川県の県神社庁から新たな神職の場として紹介された檀紙八幡神社に親王が祭られていることを知り、「香川の歴史、文化を継承していかなければ」と決意。知り合いの画家に頼んで肖像画を制作した。
 縦60センチ、横50センチ。額装して幣殿に安置している。上皇の肖像画を基に、18、19歳の頃をイメージしたもので、宮中の平服「冠直衣」を身にまとい、すがすがしい美男子とした。
 重仁親王廟は、地元住民が年に1度、御廟祭を開催するなど大切に守ってきた。長岡宮司は朝拝や月次祭のほか、月に2度は必ず同廟に出向いて鎮魂を願っているといい、「少しでも多くの人に親王について知ってもらい、歴史の息吹を感じてほしい」としている。

(四国新聞・2023/01/07掲載)



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