讃岐の科学者・久米通賢(1780~1841年)の塩田開発により、江戸時代から昭和にかけて「塩のまち」として栄えた香川県坂出市。全盛期には全国の塩の3分の1近くを生産していたという。坂出と塩業の歩みを道具などの展示を通して紹介しているのが市塩業資料館(同市大屋冨町)。同館などを訪れ、まちの礎だった塩業を支えた人々の足跡をたどった。


道具などの展示を通して塩作りの流れを学ぶことができる=香川県坂出市大屋冨町、市塩業資料館

道具などの展示を通して塩作りの流れを学ぶことができる=香川県坂出市大屋冨町、市塩業資料館


 同館の解説パネルによると、瀬戸内地方では古くから塩作りが盛んで、江戸時代には遠浅であった坂出の沿岸部が塩田に適していると考えた通賢が、財政難にあえぐ高松藩の再建策として1824(文政7)年に開墾を計画。東大浜、西大浜の合わせて約115ヘクタールの塩田が整備された。
 当時は人力が必要な「入浜式」と呼ばれる手法で塩作りが行われていた。入浜式の仕組みは、潮の干満差を利用して塩田に海水を引き込み、砂に染み込ませる。続いて、太陽光と風で砂から水分を蒸発させ、その砂を沼井(ぬい)と呼ばれる穴に入れる。そこにさらに海水をかけて砂に付着した塩分を溶かすと、濃度の高い塩水になり、煮詰めると塩ができるというもの。
 作業は早朝4時ごろから夕方までかかり、かなりの労力を要したそうだ。塩田をならす時に使っていた馬鍬(まんが)などが展示されており、その大きさから、汗を流して作業に励む人々の様子が目に浮かんだ。
 同館には製法の流れが分かるジオラマなどもある。生活に欠かせない塩を、人力で地道に生産していた時代から現在の製法に至るまでの変遷を知ることができた。


境内からは塩田跡地の番の州を見下ろすことができる=香川県坂出市常盤町、塩竈神社

境内からは塩田跡地の番の州を見下ろすことができる=香川県坂出市常盤町、塩竈神社


 坂出の塩業のキーパーソン、通賢。彼にまつわる場所にも立ち寄ろうと、塩竃(しおがま)神社(同市常盤町、塩瀬二弘宮司)を訪れた。同神社は通賢が、高松藩の9代藩主松平頼恕(よりひろ)の命を受けて1828(文政11)年に塩田の安全と繁栄を祈願して創建した。
 祭神は塩田守護や航行安全などの神徳を持つ海の神、大綿津見神(おおわだつみのかみ)。海の神にふさわしく、境内からは塩田跡や瀬戸内海を一望できる。塩田やその周辺は1964(昭和39)年から始まった開発事業により、現在は臨海工場地に姿を変えた。塩瀬宮司は「数十年前は全く違う景色だった」と眼下に広がる風景を眺めながら話した。
 同神社には、通賢の功績をたたえ、頼恕が建てた「阪出墾田之碑」の拓本が残されている。そこには通賢の人柄について「撲直寡欲(ぼくちょくかよく)に而(し)て異才あり」と記されている。実直で欲がなく、才能があるという意味だそうだ。境内には通賢の銅像があり、望遠鏡を手に遠くを見据えるその姿が一層りりしく見えた。

(四国新聞・2023/03/25掲載)

坂出市塩業資料館


坂出市塩業資料館

塩竃神社


塩竃神社

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