昨年10月に国の史跡指定へ答申された高松市西部に位置する中世山城「勝賀城跡」。16世紀後半に改修された遺構が確認でき、戦国時代に四国が戦乱の舞台となったことを示す貴重な遺跡と評価されている。敵の攻撃を防ぐために施されたさまざまな遺構を見てみようと、車を走らせた。


勝賀城跡の想定CG(高松市教育委員会提供)

勝賀城跡の想定CG(高松市教育委員会提供)


 勝賀城は、中世を代表する讃岐の豪族・香西氏によって鬼無、香西、下笠井の3地区にまたがる勝賀山(標高365メートル)山頂の南北380メートル、東西150メートルのエリアに築かれ、戦時の拠点として利用された。
 室町時代、香西氏は瀬戸内海の水軍と交易を行い、城下町や港が栄えたものの1582年、四国統一を狙う長宗我部氏による侵攻に敗れ配下となった。さらにこの3年後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による四国攻めに遭ったとされる。
 取材で訪れた2月下旬、同山の登山口近くに車を止め、城跡を目指して歩を進めた。想像以上に勾配のある登山道に息を切らしつつ、休憩を挟みながら約30分で頂上に到着した。
 北東部は人工的に整備された平地「曲輪(くるわ)」が尾根上に段々畑のように並んでいた。その特徴から築城時期は南北朝時代以降と考えられているそうだ。
 敵の侵入を難しくするため入り口をわざと食い違うように造った「食い違い虎口(こぐち)」や、敵を2方向以上から攻撃できるよう土塁を屈曲させた「折」もあり、戦に備えた工夫に感心するばかりだ。


入り口をわざと食い違うように造った「食い違い虎口」

入り口をわざと食い違うように造った「食い違い虎口」


 食い違い虎口や南西部にある四角く区画された「方形曲輪」は、安土桃山時代以降の「織豊(しょくほう)系城郭」の特徴。そのことから、四国攻めの際に秀吉軍によって改修されたとされている。
 また、建物や門が建てられた遺構が見つかっていないため、土を盛るなどして簡易的に造られた陣城だったと考えられている。陶磁器などの遺物は17世紀以降のものが見つかっておらず、秀吉軍による利用は短期だったとみられている。
 城跡は展望の良さでも知られている。この日はあいにくの曇り空でかすんでいたが、晴れていれば北側に屋島や瀬戸内海の島々、東側には讃岐平野、南側方面には五色台を望むことができる。
 市埋蔵文化財センター文化財専門員の梶原慎司さんによると、史跡指定の答申後は登山者が増加し、土日で計約100人が登ったときもあったそうだ。梶原さんは「ハイキングにちょうど良い標高で景色も美しい城跡。遺構も含めた魅力をぜひ味わってほしい」と話している。

(四国新聞・2024/02/24掲載)



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